@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

情調

何をするにも目が必要だということを痛感させられています。目が疲れている→目を閉じる→じゃあこの間に何ができる?→

本を読む は目を使うのでダメ、やってなかったゲームをやる も目を使うのでダメ 音楽を聞く をしてみたけれどノイズにしか聞こえなくてダメ で結局浅くて苦しい眠りをして夜に起きてというこの数日です。

久々にやたられているなあという感覚、しんどいという言葉がやたら頭を飛び交う感じ、擦り切れるぐらい飛び交う思考と良い気持ちにならない言葉の羅列、夏バテなのか雨だからなのか頑張りすぎからなのか全部なのかわかりませんが走って走っていたのに立ち止まって振り返る余裕ができたのかなあとも思います。

一定の疲労を超えると人間はそれを理解できない、だから大丈夫な気がしてくる。そうしたらプツッと途切れてボロボロの足場は崩れていくんですよね。逆に良くなってきたときに疲労を覚えるようになったら知覚できる範囲にまで体力が戻ってきた証拠なので一概に疲労を悪いとは言い切れないんですけどまあ大体心地良いものではないのでそうならないように日々を過ごしたいものです。

 

上書きとか丁寧な日々とか、そういうことを意識して過ごしていましたがそれは自己肯定感の育成なのだと昨日Twitterを見て理解しました。

私は私が一番可愛いとは思っておらず、まず必要なのは公の安寧だと思っています。自分ができることは可能なだけする、それで喜ぶのならば私も嬉しい。私に誰かがピントを向けてくることはあってはならない。私はこの場の最適解を無意識に演じてしまうナニカであって個としての幸せなど望んでいないから、これが自分に無意識に刻みつけてきた、様々な経験から得た答えでした。幸せを掴み取ろうとすればするほどそれは遠いもので、不器用な私が扱うには繊細で、曖昧すぎるものでした。理解しようとすればするほどそれらは離れていく。和訳を求められているのに方程式を解いていたというか、ズレていて、自惚れたときはだいたい悪いことが起きて、誰かのトリガーになっている認知なんざ一生得られないんだと、もういい、疲れたと。一定まで行くと突然ケダモノのような醜い感情をむき出しにしてくる生き物との共存・対峙は私には不可能なのだと、もうその気持ち悪い得体のしれないものに触れたくないと(多くの支えは見えないところで有ることは認知しながらも)表向きには一人で生きることを選びました。

そして時勢もあってそのあり方は最適解の一つであるような日々がここ1年と少し。

一人でも誰かが同じ空間にいればそれは公で、私はスイッチをつけて他人といる私になる。そのときにストレスとかは感じてなくてもエネルギーは使うので小休止はほしい。でも公にいる間は1ミリたりとも休めない。周りが許しても私がそれをできない。

そんな人間が本当に空間に一人でいることが許されたら今まで公としていたもののポイントは己になるんですよね。ここに来てようやっと自分に回ってくる。それが所謂最近の日々なのかと。前回花屋の前を通った時は何も思わなかったけれど今回はきれいな花を見つけて買いました。これだって昔だったら考えられないことで、自分の為に花を買う、ってスゴイですよね。好きなものを必死こいて集めたり買ったりして部屋を飾ったりするのとか、あんまり溜まってなくても洗濯を回すとか、全部少し先の自分のためのことなんですよ。昨日今日は調子が悪くて寝ていてもあそれでもやらなきゃならんことが、という事柄はなく目を休める時間があった。

今までだったらハンガーにかけっぱなしのTシャツをそのまま着るとかしていたのも洗濯をしたら畳んで衣装ケースにしまうとか。当たり前なんでしょうけど意識して無駄な動き?手間をかけるをすることが増えて、あー生活してんじゃんという感じです。自分のために何かをする、をようやく突然覚えた昨今です。

 

人が悲しんでいる横で笑顔で美味しいものを食べたいとか思わないんです。優劣を感じたくない、自分が劣なのはいいとして逆はバチが当たったような気持ちになる。美味しいものも味がしなくなる。人の足を引っ張ったところで自分の足も引っ張られるだけなのだから嫌いの発信って最近はしたくなくて。まあ多少なり嫌なことはあるんですけど収めるところで収めているつもりです。ただ最近はその嫌いの発信をやたら、色んな所で見かけて「わざわざそれ大声で言う?」と思ってしまいます。まあそれだけ思われてるとも思うんですけど。こうやって講釈垂れてるんで。

最近の人は正しいよ、間違ってないよと言ってほしくて拡張器つかってアピールしているのかなあというか、私はそれよりも好きなもののアピールしてくれたらそれを見かけたときに思い出したりできるのになあとか、個性を求めるがあまりにカテゴライズされたがっている人たちは不思議だなあと思います。今まで仲良くできていたのに最近になって違和感を覚える、とかいうのも過去に何度もありますがそれは自分か相手が成長して同じ枠組みでいられなくなったからだと思っています。それに困っているなら無理にしがみつかなくていいと思いますよ。頑張っても離れるタイミングが少し遅くなるだけな気がします。大好きで仕方ないとかなら頑張れるだけのことはしたほうがいいと思いますが。

 

 

あと経験則から、言葉は染み付いていずれ体や性格に現れるので気をつけています。よく言われますけど部屋の汚さとか全部自分の鏡なんですよね。言葉は気をつけられるのに直接体になる食には関心が向かない、美味しく食べる が難しいんですよね。すぐお腹をこわすし、味がしなくなるし。だから生きるために押し込んで食べていた時期もあるし、それもできなくなって点滴だった時期もあります。食を楽しめるってスゴイことなんですよ。実は。アイスは冷たさと濃い甘さで食べている感覚が変わらず持てる数少ない食べ物なので大好きです。昨日久々にレンチンのご飯200gを食べました。こんなに多かったか?と思うぐらいにはきつかったです、食べる頻度は上がったはずなのに胃小さくなったんですかね。

 

昨日は歯医者から返ってきてからほとんど寝ていて、今日もほとんど横になっていますがシャワーを浴びて少しマシになったので昨日若干それっぽく言ってたことをまとめつつ今です。七夕なんですね。北海道だとお菓子をもらって回りますが最近はどうなんでしょう。札幌は8月が七夕で8/7はだいたい実家にいるから最近の七夕事情に疎いです。笹が自生してるとかでもないので短冊とかもあんまり書いた記憶ないです。願い事って言われてもあんまりピンとこないですね。届かないものは今の身の丈にあわないんだろうなと割り切ってしまうクセがついてしまってどうしてもコレがしたい、みたいなのがないです。後腐れのない金とかもらえるんだったらほしいですけど。

願いがあるって良いですよね、それだけ先を見て、なりたい自分があるってことですし。最近なんかは特に今まで活かせてなかったものも活かせて全体的に割と収まるところに収まって過不足ないような気がするのでもう少しだけこういう時間を過ごして、都合のいいときに息引き取りたいなあって感じなんですけど強いて言うなら実家に早めに顔だしたいですね。まる1年帰れてないなんて今までないので私の知らないことがたくさんあるんじゃないかなと思います。最近の家族とのやり取りと言えばお父さんにお誕生日おめでとうのラインをしたぐらいなので。色々心配です。

 

偏頭痛がひどく強めのお薬を出してもらっているのでその名前を見ようと思ってお薬手帳をみたら最初のページと新しいページとで紙の長さが倍になっていました。まあ精神に関するところじゃない胃薬とかもあるので一概にどうとはいえないんですがこれらの上に先の丁寧な日々とかいうのがあると思うとハンディキャップ大きすぎますね。普通に人間やってる人たちのエネルギー量とか世界の見え方とかってどうなんでしょう。千差万別、同じなものはないとわかっていながらも大きなククリで見ても私は除け者なので一般的に受け入れられるそれらが気になったりします。

 

ほかの体調ですが消化不良は相変わらずです。こんなに腸が動き回ってるのも久しいというくらいなんですがそれも相まってか眠りも呼吸も浅くて何度も目が覚めてしまいました。寝汗の件もまだ完治はしていませんが頻度は落ち着いているのでまだマシなのかな。動かないと考える時間も増えるので今日は長ったらしくて仕方ないんですがいつもどおりですね。精神的な部分は発作もたまにあれど出先でなんかあっても困るから先に頓服を飲む、をしているからかあまり大きいものはない印象です。

眠りが浅いので夢見が悪い中色んな今まで関わってきた人の顔とか色とかが鮮明に思い出せてしまいます。正直今関わりのない人ばかりだからあんまり思い出したくないんですけど今どうしているんだろうかと一瞬でも考えるのがノイズに感じて煩わしさを感じつつもっと方法はあったんじゃなかろうかと自己反省するばかりです。

 

お話が長いよ~~~って感じなのと目が疲れてきたので今日はここでしめます。また書きます。