@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

解答

行くための準備をしていたのに。行くための予約をとっていたのに。それだけの時間の余裕はあったのに。体は動かない。忘れかけていた感覚を、植え付けたものは取り除けないと言わんばかりに頭が締め付けられてベッドの中でうずくまり、そのあとすべての予定を延期しました。私は、私は、どこに向かって走っているんでしょう?

 

8時に目を覚ましました。気持ちの悪い起床です。特別に気持ち悪いというわけではなくいつもどおり気持ち悪いという感じです。それが日常です。ただ、気圧の影響か最近は頭痛がひどいです。鎮痛剤を切らしてしまったものでごまかすために頭を何回も殴ったり壁に頭を打ち付けたりしています。それだけ頭がいたいんです。相殺したくて何度も何度も何度も何度も何度も何度も叩くんですけど頭はギューッと締め付けられるようで、左の手前側だけ圧をかけられているように痛く、先日最寄りのドラッグストアにいって鎮痛剤を買いました。それなのに今日の予定をすべてキャンセルしました。

薬を飲んでしまえば耐えられないほどではなかったのです。どうとでもなるものだったと思います。ただ、体がどうしても動かない。それに対してやらなきゃ、動かなきゃ、頭はそう思うのに逃げる方法を模索している、そこ対する計算の速さは異常で気づいたらすべての予定は今日という日から消え去っていました。声を出す元気すらなく、これはイカンと思いとりあえずベッドから起き上がります。そうすると毒素がすべて床に落ちて行ったようにスッキリしているのです。軽やかに掃除機をかけて、背伸びをする私がいました。ただ、それが終わったあとの陰鬱さといったら異常で指先の冷たさをごまかすためにずっとうずくまっていました。

 

最近、ツイキャスをよくやります。ゲームをやりながら声を発するんです。それはなんだかデイケアのような感覚です。自分の思ったことや思い出した話を見知った人や見知らぬ人と話します。その感覚は新鮮で、面白いですが終わったあと大体疲れ切って仮眠をとっています。それでも人間らしい活気ある時間が増えたのは事実です。ただ、仮眠をしないと成立しない日がキャスの有無関係無く続いており、これは異常なのでは?と思っております。

 

先日、「精神病の類の"治る"とは存在するのか」という話をしていました。私個人の意見としては「完治はしない」と思っております。半年前、幼いときからの知人が鬱になりすぐ解放に向かったのを見てそれは鬱ではなくストレス反応の類だったのではないか?と思っております。久方ぶりに様子を見てみると何もなかったかのように、鬱を過去のもののように捉えているのを見ました。精神病だったことを否定するつもりも、彼の生き様を否定するつもりもありませんが、精神病に尺度など無意味なのですがそれをみて私と同じ"鬱"というカテゴライズだったのだろうか?と疑問は生まれました。

話がそれてしまいました。精神病の良し悪しの一つに寛解という表現があります。完治ではないが症状は概ね収まっていると言える状態を指す言葉です。この寛解という言葉、よく使われます。というのも例えば鼻水が止まらないという人は鼻水が止まれば治った、といいますよね。足が折れて歩けなくなってしまった人は骨が自然にくっつくのを待つか手術をして固定するなどしてリハビリを経て歩けるようになれば治った、といいますよね。じゃあ精神、心、とは何を持ってして病であり、何を持ってして戻った・治った・正常なのでしょう。

異常と言える状態は私に関して言えば何もせずとも涙が出る、起き上がれない、ご飯が食べれない、自殺を画策する等でした。これは自分の膨大な理性的な部分がおかしいと判断し、完全な崩壊を迎える前に所長に助けを求めるための手段として病院を頼ったところ早急に休むことを提案され休んだ次第です。これは明確に異常と言えるでしょう。

ただ、当時はそこまでではないと思っていました。おかしいとは思っていても立って歩けて話せているのだから私の学のなさ・頭の悪さが問題だろうと思っていたのです。私はどうしようもない人間だけれども、苦しくて仕方ないから助けてください。そういうための材料(=診断書)をもらいに行こうとしていたというだけで休むなんてことは1ミリも考えていませんでした。社長の期待も背負っており、7月には新人代表としてステージに立つことも決まっていたんです。それでも体が追いつかないのも事実で、当時は何が原因で何がそうさせるのかわかっているようでわかっていませんでした。私は私のやれることをやっているつもりでしたし、どんどんできなくなっていく惨めな状況に、同期が輝いて行くのを見るたびに、己に傷をつけ、戒め続けていました。それが余計回復を遅らせる要因になってしまったのは言うまでもありません。

私のように自分を分析して自分のことを相手に話し、治癒させようとする人間はとても少ないようです。だいたいの患者は「自分がそんな病気なわけはない」とそもそもそれを受け入れなかったり治癒するにも薬を拒んだり、対話をしない人もザラだと聞きます。私が私を素晴らしい人間だと思ったりはしません。そうであれば今頃はどこかの業界で期待の若手として活躍していることでしょう。仮に賢者だとして、今は社会の構造から外れたおこぼれをもらうだけの乞食にすぎません。

さて、話を戻すとして。今の私を知っている人ならば少しは疑問に思うこともあるのではないのでしょうか。yuingはもう鬱ではないのでは?と。治っているのではないか?と。少なくとも理性的に考え、戒め、一人で生活している人間がなぜ精神病と銘打たれ、今障害者雇用で求人を探しているんだろうと思いませんか?

私はそういう人たちに対して逆に問いたいのです。貴方は精神病の終わりをなんだと思いますか?と私の答えは先の通り治らない。つまり終わりはないと思っています。では寛解は何を意味するのか。それは人によって様々な答えがあると思いますが私は薬がある状態であるとしても人と一緒に(=社会に)溶け込むことができたときにはじめて寛解だと言えると思います。そこに過剰に力が必要だったりエネルギーが必要であれば寛解ではなく寛解に近い状態にある、というだけであると考えます。

よく鬱は治せる、と言うじゃないですか。それは嘘だと思うのです。花瓶を床に落としてしまったとして、すべてのピースをかき集めて時間をかけて元の形にしたとしてそれは床に落とす前の花瓶と同じものと言えますか?という話なんです。もとに戻すという作業を経ている、ひび割れた痕が生々しく残っている。その時点でそれを経験していないきれいな花瓶とイコールでつなげることはできないと思うのです。

そしてこういう精神病の類は突然発病するものではない。なる人とならない人が明確に分かれているものだと思います。なる人は小さい時にどこかでなにかつまずいてしまっている。良くも悪くも。大きかろうが小さかろうがトラウマを抱えている。そのどうしようもない繊細な下地をもっていると何かが起きたときにそれが起爆剤となってしまう。大きく膨れ上がってしまう。そう思います。

周囲だけでもいろんな人間がいます。貴方の理想通りの人間を揃えるには貴方がトップに立って、貴方が好きな人間をかき集めるしか方法はなく、その手段を取れる人は極々一部で、しかもそれが成功する人など更に少ないのです。なのでそういうデリケートな部分に素手で平気で触れてくる人がごまんといます。泥まみれの靴できれいな部屋に上がり込んでくる人もたくさんいます。そうやって生きてきた人たちなのでどうしようもないのですが私側の人達からすれば恐ろしい人たちなのです。そうして不満・恐怖・ストレスが少しずつ少しずつ膨れ上がって、日常に支障をきたすのです。それでもそういう人たちと生活をしていかなくてはいけない。私は少しでもそのリスクを下げるために障害者雇用という道を選びました。自分というものを理解してもらった上で多少の配慮をしてもらう。0から理解してもらおうとするよりも1でも理解がある場所にいけばああこういう人だからな、という妥協・諦め・納得が相手方にも生まれると思ったのです。

さっきから話がそれまくってしまってすみません。結局何が言いたいかと言うと風邪のように簡単に治るものではないということです。そもそも完治というものは存在しないということです。少なくとも私の、1素人の意見ですけれども。なにか大きな病を患ったあと、寛解したとしてもそこに仕切りはなく地続きの己があるということを忘れはならないと思うのです。

 

こんな話をしといてなんですが先日病院にいったとき非常に良い反応が出ていると先生が自分のことのように喜んでいらっしゃいました。嬉しそうに血流パターンを私に見せ、こんなに強い反応を示しているということは少しずつ回復にむかっているよ、1年間頑張ったもんね。一人で大変だろうに貴方は本当にがんばりやさんだね。貴方が頑張ったからこの結果があるんですよ、と褒められました。なんだか他人事のように、こっ恥ずかしくなりながらありがとうございますといって診察室をあとにしました。今年の診察はそれで終わりでした。ちょうどこの病院に通いはじめておおよそ1年です。もう1年か、と思いながらやっとここまでたどり着けたのかという気持ちでもあります。ただ、少しでも薬がかけると憎悪が駆け巡ることもありますし不安がさまようこともあります。それでも前よりも目線を上に向けて歩いていけてる気がします。この調子で寛解に向かえばいいんですけれども。

長くなりました。それでは。