@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

絶対

気づいたら4月になっていました。3月は超えられないものだと思っていました。追われる返済や電話、訪問、手続き、目まぐるしい出来事ばかりで私に年度など関係ないのに年度末を感じる忙しさでした。コロナの影響もあってか様々な予定がキャンセルになったので今週はほとんどコンビニと家を往復する日々でした。そんな感じで何もなかったようで色々とあったここ最近のこと、思ったことを今回も思い出せる範囲でまとめます。

 

まず思い出されるのがある人を叱責したことです。その人がなにか悪いことをしたというわけではないのですが言ってしまえば常に悪いことにしてしまっているというか在り方の問題だと思うので難しいです。視線をあわせて話してみたつもりなのですが他人の思考回路はわかりませんしそれを全部どうでもいいと思われたならその程度なので人の効果というのは受ける側が受け取ろうとしない限りほぼ意味をなさないんですよね。

まあこんな状態になっている私が言うことに力があるかと言われたらまた疑問が生まれるので聞く耳を持たないというのはわかります。それでも少しでも言ったことが届いたならなあと思ってしまいます。

常に考えて、何をするにも理由や理屈や相手を考えてわからなかったらとりあえず調べて極力自己完結させて最善の答えを見つけるというのが当たり前だと思って生きてきたので何も考えずにただ受け入れられるその姿勢は少し羨ましくもありました。

なんで嫌われるんだろう、なんでわからないんだろう、なんで辛いんだろう。どんなに苦しい内容だとしても私にとって考えることをやめることは脳が死んだのと同義であり考えることが生きること、呼吸です。

私は思考をやめられない。誰が見ていなくても走り続けないといけない。水を取ることを忘れるぐらい、眠ることを忘れるぐらい、まばたきを忘れるぐらい血眼になって私は湧いてくる疑問や矛盾を埋めながら生き急いで。突然線が途切れたように立ち尽くした時というのが私の今までにあった"本気で死のうとした瞬間"なんだと思います。真横に倒れて天を仰いでまた死ねなかったなあ!と大声で笑う。なりふり構わず走ってきてしまったものですから笑っていても泣いていても誰もいないのです。だから何をしてもいい。

仮に倒れた場所が道の真ん中だとしても自分以外の人間なんて結局自分が可愛くて他人なんて二の次で。だから仮にそこに人がいようと、笑われようと、次の瞬間には忘れているのです。傷をつける側というのはいつだってそうなのです。人は万人には愛されない。好いてくれる人がいたらその人を大切にする、そうやって生きています。

それでも自分を多少なりとも追い詰める環境がないと人間は根本が腐ってしまう、少なくとも私という人間はそう作られているんだと思います。そうやってたどり着いた考えが今まで日記に書いてきた様々なことでもあり、相手がされて喜ぶであろうことをしてみる。自分がされて嫌なことはしない。小学生でもわかる簡単なことだと思います。視野が狭くなって頭ごなしに怒っていませんか?ただの黒い点だと思ったものも少し離れてみてみたらキレイな絵の一線の一部だということもあると思うのです。

 

少し悲しいことがありました。一部の人を小馬鹿にする内容でした。その内容が前科持ちだとか不良だとかそういう本人がそうしたくてそうなった、というものならいいのですが本人にはどうしようもない、どこにでも居る存在を踏んで笑っていたのです。私にはそう見えて、何も言わずに飲み込んでいようかと思っていました。私もそれの一部なので私もなんだよね、と言ったら後天性は別にいいけど先天性のどうしようもないやつら、と言っていたのです。何も知らない人からすればそう見えますよね。生産性のない人っぽい何かにしか見えないかもしれない。

彼らが生まれた瞬間から囚人のような生活を強いられて狭い世界でギリギリ人の扱いを受けて死んでいくことを知らない人からしたら、そんな奴らが作った食べ物なんて食べたくないですよね。私が身内にもいるからやめて、と言わなかったらきっと暴言は続いてたのかなと思います。思わず苦しくて頓服薬をたくさん飲みました。私が何を言われてもいいんです、自分がなった原因、今の病状、発作や薬の種類などいくらでも説明できますし自分で役所に行って様々な受けれるものを受けています。

そうではない、何も知れない肩身が狭い中彼らも生活をしていて、あるべき場所で作業をしているということのなにがいけないんでしょうか。そういう人を身内に抱えている人は私だけじゃなくたくさん居ると思います。それでも何も知らない人にとっては違う世界のお話で、そうらしいという偏見を塗り固めて絶対そうだ、と言い続けるんでしょう。社会の中で弱者であることを再認識しました。弱者でもいいんです、私が何を言われても。ただ、大切な人が間接的に何も知らないのにバカにされていくのを私は黙って見過ごせませんでした。私は間違っているのでしょうか。

 

知らないこと、知識や経験が浅いものに対して人間は絶対、というワードを使いがちだよなと思います。絶対は存在しないということは物事を知れば知るほど物事のifを考えるようになると思います。こうなってしまうかもしれない、いや逆にこういうこともありえるかもしれない。様々な可能性を考えるようになります。それができないことに対しては片手で数えられるほどの知識しかないまま憶測で絶対そう、と思考を固めてしまいがちです。

それを相手が聞いたら?街なかで聞かれたら?俯瞰して見てみたら?様々なことを考えて見ると絶対というワードは削れていくと思います。まあ、それが正しいとも限りません。その思考も個の主観が混じっているので決して絶対ではないのです。人の数だけ思考パターンや答えへのたどり着き方はある。それだけじゃなく取り巻く環境も人間関係もあるので考えていっても傷つけてしまうことはたくさん有ります。それを反省材料にして糧にしていく、今度はこうやって接していこう。私はそうやって生きてます。私はこの在り方を正しいと思っています。それでもこうやって社会から溢れてしまったということは大衆というのは次に繋がるアドバイスよりも発展性のない同情を求めているんだろうなと感じざるを得なく、気づいたら一人になっていました。それをありがたがってくれる人や優しいと言ってくれる人も最近はいますが自分みたいな考えの人は少ないのかなあとも思います。

そうじゃなくても絶対絶対絶対という人は余裕がないのかなとも思います。社会から外れて世間を見ると色んな意味で余裕がなく、考えのない人が以前に比べて露見している感じがします。民度が低くなったとも言えるんでしょうか。なんとも息苦しい世の中だなと思います。

 

最近、おそらく膀胱炎っぽいので病院に行こうと思っているうちに収まっていたり、片付けなきゃと思っていたものの上に別のものが重なっていたりやはり身体と世間の時間の進み方がずれているように思います。入眠は前よりもスムーズにできるようになりました。発作的な恐怖や不安は相変わらずで薬に依存しています。嘔吐は減りました。少し前向きに考えられる時間が増えました。概ね体調は良好かなと思います。

ただ、咳き込むことや悪寒がすることもたまにあり、昨今を鑑みると少し不安があります。部屋にはまだマスクのストックがあるので問題有りませんがトローチをなめてどうにかやっています。

 

そういえば昨日、珍しく弟が高熱・下痢・嘔吐に見舞われていたらしく電話口で苦しそうにしていました。お母さんに色々事情を聞きましたがこの10年で1番ひどい状態で不安なまま夜を過ごしていました。今日になると熱は下がって落ち着いたみたいです。原因は不明ですがストレスの可能性は十二分にあるなあと思います。またぶり返したり、体力が落ちている間に他の病気になったりしなきゃいいなと思いつつ自分の療養も進めながらぼちぼちまた再活用していこうと思います。みなさんも体調にはお気をつけて。それでは。