@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

称賛

最近はここ半年ぐらいの中でもなにかを書こうというモチベーションとタイミングが噛み合っている気がします。書けないときは嫌々、というわけではないのですが書くかあ、といった感じなのでこうやって意欲的に文字に起こすのはいいことです。

交換日記のような特定の誰かに見せるような訳ではないですし一人で過ごしながら湧いてくる文章を覚えてる限りで掴み取ってそういやこういうことも、あこれもあったな、それでこれもといった感じで裾野を広げていってその備忘録としての壁打ち日記なので結構支離滅裂だったり誤字がひどかったりすると思います。しかも基本的に陰鬱でジメッとしてますよね。白黒でしか己を切り替えられない自分がニコニコとヘラヘラして隠してる端っこに寄せ集められたホコリのような部分の己を凝縮したものばかりですし。普通の人たちというか世間に馴染めてる人たちはそれをうまいこと混ぜて程よい塩梅のグレーにして溶け込んでいるんだと思います。それが出来ないから浮いちゃったんだろうなあとも思います。グレーが混ざり合っている中黒か白の点があったらやっぱそっちに目が行きますし。

そんな人間の吐露を見てる人は案外いるみたいで最近も頭の中で考えていることを文字に起こすとことがすごいと言われああ、自分の作ったものが見られてる、とだいぶ喜びました。小さな特技なのかもしれないですね、わからないですけど。

自分の気持ちを書いているだけなのに批判とかを言われたくなくてコメント出来ないようにしてるんですけどTwitterなどで丁度いい文量だから読んでいるとかいつも読ませてもらってますとかそういう一言をもらうと今日思い浮かんだこと書いとくかという少し前向きな気持ちになります。ネガティブな内容は私が十分書かせてもらってるのでどうせなら褒め言葉だけくれると勝手に喜んでこうやって更新頻度が上がる気がします。流石に最初の頃のように毎日は無理ですけど…あの頃は何もできないから義務感でやっていたところもあったので。

年をとるにつれて怒られることも褒められることも減ってしまいますしそれを求めるのは"大人らしくない(年齢に見合わない)"とされてしまうので余計嬉しいんだと思います。とはいっても年を重ねて見た目や雰囲気はかわっても中身までガラッと変わることって中々ないですよね。私は今25ですが10歳ぐらいのときに想像していた25才というのはもっと大人でかっこよくて仕事ができて何でもできる、って感じだったんです。でも現実はこんなかんじで。

人間は年をとって飛躍するわけではなく地続きで歩いてもうそこにはないけど確かに覚えていて経験したもの(過去)を積み重ねて生きていて今があるんだと痛感することが多くあります。青春とか何ぬかしてんだよと鼻で笑いながら適当に過ごしていたあの日々の空気感それ自体が青春だったんだなあと今この瞬間離れていくそれを懐かしみながら、歩いていくごとに遠ざかっていくそれは見えにくくなるそれを美化していきます。

地続きだからまだ何も知らなかった幼い頃に期待していたきらめき?子供心?は今もどこかにありますしきっとこの先死ぬまでどこかに隠し持っているんだと思います。要は年をとっても人間は成長はすれど進化はしないのだからいくつになっても褒められたいだろうということで。怒られたくはないと思いますが(怒鳴られるのではなく)怒られるうちは希望を持ってもらえてるということなんだろうと思います。

子供の頃、お母さん曰くクールで大人びていたらしく褒められても別に…という態度でした(ませたガキですね)。素直に喜べなかったんです。たまたま出来ただけで頑張ってないのに褒められる意味がわからない、心から喜ぶってわかんない、という感じで。なんでそんなはしゃげるの?という冷めた目をしていて保育園でもお絵かきやブロック遊びなど一人遊びが好きでした。人形遊びやままごとやごっこ遊びなどはそれを演じてなにになるのかが全くわからないという感じで何も楽しくなかったどころか恥ずかしかったです。ちょっと成長してもジェットコースターとかで叫ぶっていうのもわからなくて。そんな声出すほどか?となっていました。普段ゲラゲラ笑ってるのにそういう時だけなんか冷めていたんですよね。頭を使ってしまうというか、なんなんでしょう。ここ2年位は冷めきっているというより幅はあったけど停滞しているという感じで随分柔らかくなったと思います。

話を戻すとよく褒めてくれていたのはお母さんですが「yuingちゃんすごいね~~~!」と結構大げさな褒め方で未だにそんな感じです。本心なのか茶化しなのかわかりませんけどはあ、という感じでした。せっかく褒めてくれているのに本当に親不孝ですね。お父さんは古い人間なのと不器用なのもあって褒めてくれたことはありませんでした。同時に何をしても怒ることもありませんでした。諦めているからではなく可愛いしちゃんとしているのはわかっているから怒る必要がない、とお母さんは言っていましたが横で弟をひたすらに怒鳴っているのを見ていたので自分も怒られている気分にはなっていました。

そういう小さなズレや認識の間違いは時間がたつと「失敗したら見限られる」「失敗するのが怖い」に変わっていって失敗しないように、何も起きないようにとずる賢い、全うとは言えない手段を使うこともありました。褒められたいというよりできることが当たり前と捉えられてしまったから当たり前じゃないのに当たり前と振るわなきゃいけない、そうじゃないと捨てられちゃうから。そういう強迫観念を持ちながら過ごしていました。まあ実際こんなにボロボロになっても大丈夫だからと言ってくれるぐらい優しい人達だったんですけどませた子供がそのまま思春期に入ってしまったせいで時間がかかってしまいましたね。

今は一人のことが多いので喋ってこうだよああだよとやり取りをしたりこうやってアウトプットすることでそれだけで自己肯定感みたいなのがつかめます。3ヶ月前よりはどもりも減った気がします。実家に帰ったからですかね。かと言ってずっと人といるとMPが減っていくので調整は必要ですが3時間ほど喋り続けただけで表情筋が筋肉痛になったのは流石にまずいなと思ったのでアウトプットの頻度を増やしたいなと思います。

 

調子がいい、というような表現をしていますが薬がきれて、でも動けないから病院に行けないというのが一週間ぐらいありました。ああ薬がないとこんなに何もできないものなんだと薬が食べたい、薬、薬、と狂ったように部屋の引き出しや棚などをみて余っている薬があるか探していました。ヤク中ですね。落ち着かない、でも脱力している。そういう感じです。夏バテもあったかも知れませんが薬が手に入ってから外も涼み始めてきたので何が原因か曖昧なままです。そういう話をお医者さんにしたらもう1回薬入れ直さないとだね、それでも前より病状は良くなったんじゃないかなどこに行っても無感情っていう感じでもなくなってきたし。実家に戻って良くなるってことは回復の見込みはあると思うよ。あと薬抜けたのによく来れたね、一人だから大変だったでしょうとおっしゃってくださってありがとうございますとしか言えませんでしたがああ、なんだかんだ診てくれてるんだなと思いつつしばらく1ヶ月置きだったのでまた頻繁に様子を見てほしいので2週間後にまた伺わせてくださいといって月2で通い直すことにしました。なにかあればそこで微調整もききますし。悪くはなってないとはいえ良くなってるのかなあという疑問が少し解けました。薬がないとまだ人間に擬態するのは難しい、静止した時間を過ごすのが今の自分の妥協点だけど以前よりはHPがあがったかなあという感じです。その薬の量が少しずつ減ればいいんですけど。

反面良くなっていくことで甘んじてられなくなってくる、言い訳がきかなくなってくるなという焦りみたいなものもあったりします。寛解が目標だからこそ通院しているんですけど。家庭によると思いますが風邪を引いた時って家族の誰かとか友達とか看病してくれたりお見舞いに来てくれたりするじゃないですか。来れなくても大丈夫?って心配してくれたり。そのときって勿論体調悪いし早く良くしたいけど特別扱いされてるなあって思いませんか?その特別感にもうちょっと浸っていたいっていうのが1番わかりやすいかなと。その体調が良くなるっていうボーダーが曖昧だから余計なんですよね。心持ち次第なんじゃないか?とすら思います。少なくとも現在はまだ寛解まであと少しというわけではないんでしょうけどその少し先を考えてしまいます。余談ですが血圧が上75なのは流石に引きました。

 

死にものぐるいで求めてた薬を飲んで落ち着いたからか家事も捗り、めんどくさがっていた作業も済ませて、買い物にもいってできることはほとんどこなせて今日は何をしようかなあとなるぐらいに余裕がありました。普段なら疲れたから仮眠とろう、となることが多いので体力戻ってきたんですかね。気力の問題でしょうか。比較的今は元気です。雪が振り始める前に色んな所に顔を出しておきたいですね。コネでつながった人たちも今ではメールや電話だけのやり取りになっていたりするので…

今日も中身のないことを長ったらしく書いてしまいましたが文字にすると一時だけですがそこで完結したような気分になれます。苛立っていたことも悲しんでいたことも文字という視覚化だったり入力という作業で昇華されたと誤認識するんです。別の話題も連なってくるので誤魔化しもきくんだと思います。

というか今日書こうと思っていたことが抜けて全く違う事になってしまったのでまた近いうちに書きます。最後までありがとうございます。