@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

突拍子もない話をします。なんというかここ最近の世界の見え方というか。そんな話です。

全ての人間に共通した幸福というのは存在しないと思っています。それぞれ得てきた環境や価値観があって、例えば人の死ぬ瞬間が幸せだと思う人もいれば、人の笑顔を見る瞬間が幸せだという人もいるわけです。

万人が納得の行く答えというものはこの世に存在しません。ロバと夫婦の絵でしたっけ。あれと同じです。なにかを決めれば批判の声もありますがそれだけ支持してくれる人もいます。光を当てる方向を決めるとその光源の後ろには必ず影が生まれてしまいます。1人の人間がすべての人から愛されるというのは無理な話です。

最近、周りの人たちが輝いています。このご時世でも業績をあげる人や転職をする人、結婚や妊娠など様々なオイワイゴトというのはこの年齢になるとよく耳にします。それが遠くで聞こえてる分には構わないのですが同じラインで笑っていた人間が一つ、二つと秀でていくのです。そして目を背け続けていたら"首が痛くなってしまう"以前の最後に書いたことのそれです。

私は私の日々に納得しています。満足しているとまでは言いませんがなるべくしてなった、理不尽なものではないと、やることを為してやれないことは諦めてこうなったんだと飲み込んでいます。ただその首の痛さ、私は「相対的不幸」とよんでいるのですが遠くに行ってしまう人たちにやるせない気持ちを感じてしまうときもあって、この環境に満足している自分は小さな人間なんだなと俯瞰した自分を知る羽目になります。

なにもその人たちの輝きを憎いとは思いません。それは運か努力か立ち回りか、自分に伴ってきた何かが生んだ形なのでそれを憎むのは愚かだと思います。それに負の感情を抱く人は己の環境に納得がいっていないか過信しているか野望があるか。なんかしらのエネルギーの形なんだろうと思います。私からはすでにそういうエネルギーもなくなってしまったとも取れますね。

 

日が当たるわけでもなければ海の底に届くわけでもない深海の中海の流れにたゆたうままに生きる作業をしている感覚です。何にも触れずに1日が終わった。紙が1枚めくれる。何も出来ずに1日が終わった。また紙が1枚めくれる。紙が3枚めくれる5枚10枚13枚25枚33枚60枚90枚そんな感じです。なんだかSCP-3001みたいだなって思いました。わからない方は調べてみてください。ホラーテイストですけど。まあSCPというコンテンツが万人受けするかは置いておいてですが個人的に印象に残っている作品の一つです。まあそうやって引き伸ばされていくんですよ。

人様の言うオイワイゴトだって私にとって正なのかといわれたらあらかた否なのです。私の価値観でオイワイゴトを否定していきます。不快でしたらごめんなさい。そしていつかこの価値観が変わる日が来るかも知れません。そうだったなら面白いのですが。

結婚はしたくありません。たった数ヶ月?数年で私のなにがわかるんですか。その誰かのなにかもわかりません。己がうちに秘める分いやそれ以上、相手にも人生という厚みがある。理解し合うには人生はあまりに時間がたりない。いや、人生がいくつあっても足りない、不可能なことでしょう。そんな"不確定な存在"を同じ空間に置きたくないのです。不確定な存在は不確定な事実を生みます。テーブルに置いていたはずのリモコンが椅子の横にあるとか。そういうのだけで怖いんです。全てが自分の知っている状態であってほしい。不確定に怯え続ける羽目になるからです。これは割と昔からな気がします。実家でも2階に自分の部屋があって無音で干渉されない空間を保っていたので今更慣れろとかそれが普通とか言われても私の普通ではないのです。

子供を生みたくありません。この生において散々毒を浴びながら飲みながら生きてきた自分がなぜ負の連鎖を自分の身体をちぎりながら、時間を与えながら、苦しみを伴いながら、繋げなきゃならんのでしょう。その苦しさを上回る可愛さがあるといいます。わかりません、そんな不確かなもの。その確認のために生命を作るのはいかんでしょう。その痛みが美談になるなんてもっとおかしな話で。自分につながるまで数多の人々がそれを繰り返したと考えると狂気の沙汰とすら思えます。その思考は生物としての欠陥だと言われたらじゃあ欠陥品は途絶えたほうが良いでしょう、というお話なのです。この世は地獄です。何もわからない有機物をかき分けて生きなければならない何もわからない、それがそこにあるのかすらもわからない、(様々な意味での)環境というのも基盤が崩壊し始めている。こんな世界に自分の遺伝子を持った生命体を置いて逝くのですか。産まぬよりよっぽど罪深く思えます。

こう思いながらそれらはオイワイゴトとして持て囃され相対的不幸を呼んできます。幸い家族がどうこういってくることはありませんが

「あそこの家は結婚したらしい(、お前はどうなんだ?)」「2人目の子供が出来ました」「あの子今はどこどこの課長さんですって。」「上の子は小学校に入りました」「最近転職に成功した、ボーナスが増えた」「新しいなんとかを手にして今コレを目指している」「旦那さんが誕生日サプライズを」

嗚呼皆輝いてる。なにかに向かって、何かを掴み取って、生きてる。

作業的に口に食べ物を詰め込みながらそれらを眺めます。本当ならばそれは食事と呼ばれるものなのに作業として片付けてしまう。そうやって小さな光も踏んづけてしまうようなおろかな人間。絶対的な不幸だとは思いません。奇跡的なタイミングで多くが噛み合った瞬間もここ1年いくつかありました。ただただ人と比べて不幸だと感じるだけ。きっとそう。資本主義下で私達は比較をやめられません。幸福は不幸のもとに成り立ち、贅沢は貧困のもとに成り立ち、平和は争いの元に成り立つのですから。そうやって比較をし続けることによって自己を形成するのが今の人間なんです。不可抗力ですよ。今日も天秤の片方に自分をのせてもう片方に色んなものをのせながら揺れを見るんです。浮いたり沈んだりするのをみて生きるのを感じるんです。

他者で、感情で、世間で、そんな不確かなもので自分を形成したくない。好き勝手に内臓を弄くられたくない。それでも結局自分を決めるのってそういう信用ならない不確かなものでしかないんですよね。かわいそう。本当にかわいそう。そんなものたちが作った世界はやっぱり地獄でしかない、世界すらも曖昧なものなのでは?夢なのでは?とすら思います。

 

薬がきれて(病院に行けずに)離脱症状で動けませんでした。今日は少し動けました。そんな時にこんなことをああだこうだと考えていました。やることいっぱいあるのに。

日記というか思考の記録というか。今日はそんな感じです。