@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

再発

何かにそうしろといわれたわけでもないのにそうしなかったからと言って誰かに怒られるわけでもないのに夜眠って朝、遅くても昼前には目を覚ます。強迫観念からでもなく体がそうしようとする。当たり前のように薬を飲み、当たり前のように作業をこなす。家事をして、明日の準備をして眠くするためにまた薬を飲んで眠る。薬を飲む際にはアルコールとの併用は極力避けなくてはいけないのでお酒を飲んだら最低2時間は空ける。そうやって毎日を過ごしている中に他人の目はやはりなくて。そうやって今日も昨日も一昨日も、明日も明後日も過ごしていくんだとふと思いました。そうしていかなければ、今頃どのような生活を送っていたかわかりません。生活リズムというものは最初こそ苦労すれど慣れてしまえばそうやって体が勝手に順応していくものなのだと思います。そうしているということは私は生きることにまた一つ前向きになっているんだとも思いました。

最近週1程度に日記をまとめて書くのが日課になってきました。ああそろそろ書こうかな、と思えるのがちょうどそれぐらいで前に比べて随分減りましたがそれでも時間を見つけては書いていくつもりです。

前回の日記では長ったらしい夢の話を書きました。あれからやたらとそれに似たような夢を多く見ます。決まって既視感のある夢をまた見ているという感覚を覚える、明晰夢のそれではないのですがその登場人物としてまたそこに立たされているという感覚はある感じで分岐まで戻されている感じです。起きたときの疲労感はあのときほどじゃないにしろぐったりしていて決まって目は充血しています。ベッドから離れるまでその空間に自分がいたという感覚から抜け出せずにいます。なので急いでベッドから出て窓を開けて冷たい風を思い切り吸います。そうやってはじめて夢から覚めます。そういう夢は決まって、薬の副作用による眠気からの仮眠で見ることが多く先日そのことを伝え薬を変えてもらいました。そうしたら眠気や仮眠の必要はその時に比べて随分なくなったので夢に疲れることはなさそうです。

そういうことを考えていたときふと思ったことがあって。自分が飲んでいる多くの薬はほとんどが脳に作用している。それも決まって脳の機能を下げる(落ち着かせる)ものばかり。漠然と飲んでいることの多いそれらは様々な方向から脳を抑えつけているんだと気付き一瞬怖いというかああそっか、という気づきを得ました。薬を飲んでよければまあいいのかな、信用に足る先生がゆっくり少しずつ調整してくださっているお薬だから。と思って飲んでいますが自分の机やベッドの横にぐちゃっと積み重ねられたシートの残骸を見るたびにきっと今の症状は鬱からの症状じゃなく根っからの性質に枷をかけているんだなあと思いました。確かに病院にかかり始めてから起きた症状も多くあります。しかし、眠れないというのは昔からざらにありましたし1時間ねれないのは当然でした。意識を集中させすぎて全く見知らぬところから音がすると異常なぐらい驚きを見せて脈拍は異常に早くなることもありました。周りのあらゆる行動が気になって目の前のことに集中できないこともざらでした。なので私は元々そういう人間で、会社で色々と自分に合わない条件が積み重なってしまったことで腫瘍のようになってしまっただけなんだなと、なにもないところから生まれたわけじゃないんだなと改めて思いました。

だからなんだという感じですがこうやって文字に起したり当たり前のように会話にできるという人はそう多くないと思います。鬱なんて嘘をつくなと言われたこともあります。随分良くなってきた今は一般の抱くそれと乖離した状態だというのは自負があります。"元の状態"とは何なのか。正直わからなくなっています。それが元来のものなのか突然変異したかは別としておかしい部分があるのは明らかなのでそういう意味でも一生の付き合いになるんだろうなあと思っています。

最近、ふと会社に対して憎しみを覚えるときがあります。職務経歴書を書くために昔泣きながら書きまとめた勉強ノートを開いたのです。そのときに上司から言われたこと!という名目で「可愛げがない、営業に向いていない」とはっきり私の字で書かれていました。電話での喋り口が上からだとか知ったかをしているように見えるだとか。書いてあるということは直接言われたんだと思います。正直ちゃんと覚えていません。上司から何を教えてもらったのか、上司の顔や声、もうほとんど削れてしまって覚えていません。ただ、その時の自分が思っていた気持ちは今思うと間違っているような気がする、私が行っていたことは間違っていなかったという自己肯定も感じました。そのメモ書きの言わんとしていることもとてもわかります。私は負けず嫌いで見栄っ張りなのでなんとなくわかればそうですね、と言って知っている素振りをしてしまう悪癖があります。今はすみません、わからないのですがと言えるぐらいにはなりましたが当時はまだ言えない、いや、言っていい対象なのか、どこからなら言っていいのかがわからなくそうするしかなかったような覚えがあります。黙って背中を見せてそこから学び取れという私の父を彷彿させるような不器用さを持つ元上司から、何も知らない新卒の私は何も学び取れませんでした。そうして勝手に期待されて勝手に失望されてしまい、見知らぬうちに見放されてしまい、放置されてしまいました。

あまり過去のことを引きずりたくはなく、だからこそ前を向いて色々やれるようになった今多くのことに手を出しているわけですが時には振り返らなくてはいけなく、そのたびに苦汁をなめるような辛さを覚え、ぶつけようのない悲しみや怒りが湧き上がってくるのです。

この1年半本来なら得られない多くを得ましたが、本来ならあり得た多くを失いました。メンタルによるブランクは私は地雷を抱えていますと宣言しているようなものなのです。なのでそれを許さない場所にはもう踏み入れることができなくなったも同然。私の選べる選択肢は少しずつすり減っているのです。

 

そんな思いで作り上げたはじめての職務経歴書。メールで送ったところ見栄えや文章の修正など、少しメールで指摘するには多すぎるので直接来てほしいと先日伺った場所からメールで返信があり、あぁ…そんなに出来悪かったかなあ…と若干ショックを受けながらも明日伺ってくる予定です。

 

今こうやって書いてて思い出したことがあるのですが、よく「もし○○じゃなかったら私達出会えていなかったよね」とか「もし○○だったらあなたは生まれていないんだよね」とかそういうのあるじゃないですか。それって出会えてなかった先、生まれていなかった先でその人や私に変わる人たちも同じことを言っているんだろうなあってたまに思います。じゃあなんだ?って言われたらその先になにかあるわけではないんですが数ある中からこの状況にたどり着けてよかったねという意味合いとして取ればなるほどとうなずける反面、もし違ったらどこで誰に対してそれを言っているんだろうなとあてもない思考をしてしまうんです。

結局どこの誰になったとしても誰とどのようにやり取りしていてもそうやってその瞬間に感謝をしている自分たち・自分じゃない誰かがいるんだろうなと思うとなんだか奇妙な気がしませんか?まあ自分に見えない場所や空間のことを思ったって人間のスペックじゃ見ることも測ることもできないのでやはりなんともいえないんですけどね。

 

最近は少しずつ料理、料理と言わずともすこし手を加えたものを作って食べるという動作を意識しています。レンチンとお湯を作ることだけじゃなく炒めるだとか焼くだとか。そうじゃなくても夕飯にポテチを選ぶのをやめるとか。そもそもスナック菓子を買わないとか。少食でいくら体重が変わらないとは言えそれで吐いたり肌が荒れたりしていては意味がないと思ったので野菜を買うようにしたり、調味料を買ったりしてちょっとずつ人間らしさを取り戻そうとしています。最近は塩キャベツを食べています。一時狂ったように食べていたので体が覚えていたのか久々の包丁もこなれた感じで少し笑いました。味と食べてる感覚に比べて結構な量のキャベツを取れるので好きです。あと単純に美味しいです。スナック菓子よりよっぽどいいです。飽きない程度に暇を見つけてはなにか作ってストックするようにするなど少しずつクオリティを上げていきたいですね。

 

あ。後最後になりますが私事ながら先日誕生日でした。親含め各位から祝われてだいぶ嬉しかったです。ありがとうございます。20代折返しですがこれからも程々にやれることをやれるだけやってみようと思います。それでは。