@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

退廃

8月中にこれが書き上がるかわからないんですがどうも吐きそうなぐらい感情が過多というか、器から液体が溢れて真っ直ぐ地についた瞬間に激痛が来るような、処理できない状態になっています。だからといってそれを共感してもらいたいわけでも慰めてほしいわけでもなくただ平静になりたいのですがああ、こういうのこそ残さなきゃと思って指先が迷子になりながら打ち込んでいます。

実家ではほぼ異変なく過ごせました。あんた外に出てないよね、と言われるまで外に出てないことに気づかないぐらいには平和ボケというか、とことん脳を溶かしていました。長い夢を見ているようないつもの感覚でした。実家のある場所はとても涼しく風通しも良い。夜になれば涼しいきれいな風が吹く。自分が知っている夏でした。ご飯はとても美味しかったです。お風呂はとてもリラックスできました。全員働きに行って誰も居ない家の真ん中に立って7年前となにもかわっちゃいねえじゃねえかと思ったりもしましたが窓を全開にして横たわって目を閉じてもひたすらに無音でその空間は幸せと虚無を混ぜて希薄させたような理想の空間でした。このまま静かに活動停止してしまいなと何回も思いました。

元気そうやって過ごしたからか自分って今異常なのか正常ってなんなのかと考えたりもしました。笑ったあとなど静かに笑えるようになってるじゃん。もう普通なんじゃないか?と一呼吸置いたり、その後に何を持って異常なのかとか毎日薬を飲まないと普通なりえないからなのか?突然悲観するのなんて診断を貰う前からそうだったじゃないか。とグツグツと終わりのない考えが煮えたぎっています。これは流石にこれから一ヶ月ぐらい様子を見てみないとわからないですが、もしかしてそういう弱者のレッテルを守ろうとして自分を偽っているんじゃないかとすら思います。だからこうあるべきなんだ、というか。何もしてないからそんなところまで考えてしまうのかも知れません、ある程度の刺激はやはり必要なのですがどういう切り口で負荷を与えるべきか、探るに探れずにいます。刹那的に生きているはずなのに得体のしれないものに手を突っ込む勇気が出てこないあたり、たかが知れてますよね。

まあそんなことをぼーっと考えるだけで時間は溶けていって気づいたら月末。来たときはそんなに長い期間いるのかと言われたにもかかわらず帰る頃になって明日もなにもないならいればいいのにと寂しそうに笑うお母さんを置いて暑い札幌に帰ってきました。帰る間際に色々持たされながら買い物もして部屋について休む間もなく荷解きをしてエントランスに戻ってポストに入ってるものを全部抱えて部屋に戻り整理しました。チラシが無理やり突っ込まれた合間に封書が入っていたりかなり大事な紙がそのまま入っていたりして結構大変でした。

寝苦しい夜。同じ地続きの場所か?と疑うぐらい汗を流して1日5回シャワーを浴びてました。しかし昨日今日はうってかわって涼しいです。なんだったんだアレは、というぐらい一気に涼しさがやってきてこれでいいんだよこれで、という安心感を持っていると同時に秋冬限定だの秋冬コーデだのという単語を見るようになりアレ?そんな時期なわけないまだ春じゃないのかと振り返ったら2020年になって250日ぐらい経っていたわけです。意味不明な事を言っているのは承知なのですが本当にそんな感覚で。置いていかれているというか漂っているだけというか何してんだろ。となりました。

 

全く自分ではそう思ってなくても周りに○○変わった?とよく言われるようになりました。声とか見た目とか雰囲気とか。あまりに色んな所を指摘されるので自分って自分なのか?と考えることが増えました。2年で人格が変わったりしたんでしょうか。どこかでどこかの自分と入れ替わったんでしょうか。ずっと一人でいることで最適化してしまった人の擬態すら怪しくなった自分を表に晒してしまっているんでしょうか。自分を中心に世界を見ているのに自分だけが見えなくて自分以外の全てによって構成されていく感覚、なんだか残酷ですよね。鏡を見てもそれは自分以外が見る自分とは違うものなので自分を直視することは永遠に出来ないんです。

そんな自分が曖昧になっている状態でも自分を視認してくれる人間というのはいるもので連絡を入れてくださる方も一定数います。こんなに閉鎖的な生活をしていてもかつての自分が頑張っていた残り滓がどうにか外とのつながりを保持しているようでああ、まだ忘れられてないんだ。だとかまだ人だったのかとハッとさせられます。死ぬときは全ての人間から忘れ去られて逝きたいと思っているのですが生まれてきた時点で誰かのなにかに確実に刻み込まれてしまっていて、息をする限りそれが続くから不可能なんだと再認識します。

 

感情を整理できない中で毎日いろんなことを考えて過ごしているわけですが前に比べて感情の起伏というか横に揺れるのではなく縦に揺れる不安定さを持っている気がします。いや、横に揺れ続けているのに縦にも揺れるようになったのかも知れませんがとにかく幅が生まれました。これは素晴らしい、これは眩しい、これは美しいと認識できるものが出てきました。今までの人生でもそうやって素直に手に取れたことってあまりないように思います。全てに陰りが見えて素直に受け取れない。大丈夫だよ、と言われてもその手が震えてしまう。醜い、怖い、消えたいみたいなのが常にサラサラと身体を巡って居るように思います。なのでそのモザイクやノイズを振り切って見つけたそれに素直に感動する自分に恐怖すら抱きました。知らず識らずのうちに私はより人間らしくなってきたのでしょうか。やはり私は変わったのかも知れません。

 

全く関係ない話をするんですけど小さい時アンパンマンバイキンマンが大好きでした。いつも応援していつも負けて大泣きしていました。覚えています。バイキンマンはなんでも一人でできてしまうからすごいと思っていたんです。それをまたバイキンマンのしわざだ!といわれパンチを食らって飛ばされて終わり。なんだか悔しかったんです。それを思い出して一方的に見る正義は相手を悪とみなすことで初めて正義になりえるけれどその相手は悪ではなく相手も相手の正義や主張があり互いにそれを向けあっているだけだと思いました。そのときにスポットが当たる方を私は生まれ持って素直に歓迎出来ない人間なんだと知れました。話題の作品は注目されすぎててあえてそれを忌避するような、アニメを見たときに主人公を好きになれず埋もれがちなキャラクターを好きになるような傾向は案外そういうところから来ているのかも知れません。

 

札幌に戻ってきてからあまり食事を取らなくなり始めつつあるので意識して外に出るようにしているのですが決まって雨にあたったり人が多い時間だったりで空回りしています。

今日友人たちとやり取りをしているとき、自分はふわふわと曖昧なものをなぞっているだけで彼らは確実に何かを積み上げて行っているんだとしってポロポロ涙が出ました。こうやって置いていかれるんだと感じました。個々人がそれぞれの環境に満足していればそれでいいと思うのです。ろうそく1本で笑顔になれる人もいればシャンデリアを見ても不満を言う人もいるのです。

しかし同じところで同じようにはしゃいでいたと思った人と久々に顔を合わせたとき見上げる存在になっていたらその首の痛さとは別に痛むものがあるのです。単に私が成長していない、退化しては戻ろうとしてを繰り返すだけなのですがその見上げた角度に"いれたかも知れない自分"と比較してしまいます。不器用ながら不格好な線をなぞってきたはずなのにどこで狂ってしまったんだろうと変わらない過去を触りにいってしまいます。そんなことの繰り返しです。9月になったところで何も変わらないでしょう。それでもどうにかしようともがくんでしょう。いつまで続くんでしょう。