@yuing__ の話

鬱になって休職したあと退職した人がtwitterでつぶやかないことを書きます。

下手

いっぱい文字を書いた気がするけれど、それを見せていなくて、自分の背中の影に山積みにしていたみたいです。自分の中ではリハビリをしようしようと少なくなったHPの中で可能な限り語彙を、ハマる文章を、噛み合う音を見つけながら繋げては付箋に書きなぐって、感情が湧き上がれば書きなぐり感想として軌跡として残して、本来記すべき日常は二の次になっていました。

なんだか、たくさんたくさん、よくも悪くもいっぱい考えます。いつもどおりっちゃいつも通りなんですが、そういうふうに俯瞰するときが増えた感覚があります。同じことの往復の日もあれば絶望を滝のように浴びるだけで数日がすぎることもあります。先の俯瞰ってのは充実は感じなくても掴み取るものだとか処理ができたりしたと実感したときにハッとする時に自覚するんです。まあそれをアウトプットする前に力尽きて眠ってしまうせいで思考が散らばっていますが。前回の陰鬱とした感じは浴びに浴びまくったマイナスの気持ちの吐露なんだと思います。

 

曲がりなりにも形を作ろうとしているのはやはりいま自分を支えるのに必要な分の薬を補填してもらったからなんでしょうか。最近は適当にやっていたストレッチを指先まで意識を尖らせてみたりとかしてみるぐらいのおきているときの余裕はあります。

ただ、嘔吐はたまにするし、先程から書いている通り眠ってしまうんです、前ほどガクッとぶっ倒れることはなくなりましたが予防策として横になっていることが増える→眠ってしまう だとか、画面をずっと見ていて目を休めたくて目を閉じざるを得なくなるとか。

前より外に出る頻度が減ったからか1日の間隔がふわっとしていて、それに可もなく不可もなしにくたばるような作業的な日々なので日常がよくなったかと言われたら悪くなったんだろうなあと思います。

 

ゲームで本当に脳を使わず作業状態になる事があって同じ動画を何度も再生したり、ゆっくりをつかった紹介系の動画とかとにかく耳障りにならないものをなんとなくかけ続けることが続いたのですがあ、アニメみようと思い立って2本アニメを見ました。思い立って見るまでに時間がかかるタイプなので見れていない作品がごまんとあるはずなのになんで見たことあるものを何度も見て満たされようとしているんだろうと思って見たんですよね。久々に新しい情報がいっぱい入ってきて、見た2本とも「女の子たちが努力する」共通点を持っていたのもあり、ボロボロ泣いていました。

全力で、楽を捨てて歯を食いしばって這い上がろうとする存在はかっこいいです。コレは私の好みだとか"現実味"という点から本当にかっこいい存在というのは敗北を知っているものだと思っていて、そっちのほうが説得力があると思います。正解だけを選んでいたり、楽をしようとしたりするのは決まって薄っぺらいのです。

 

私は器用貧乏と不幸体質のサラブレッドのような存在だと痛感しています。自分たちは悪くないのに割を食って過ごす両親を見て、嫡子として振る舞う以上なんとなくわかってしまうから触れないとか、周りがそうなのだからと下手に期待したときに限って大目玉を食らうとか、タイミングの悪さという天性の才能を得てしまったがゆえに無駄に傷の数を増やして過ごしてきたのだと振り返って思います。

ただ、最初からそうだったわけではなく、傷が多いからこそバカみたいにお人よしで、何度も何度も多くの人に期待をしたり、心許したり信用したりしてみたものです。私なりに。それでも当たり前だとか、期待はずれだとか、辱めを受けることになったりだとか、そんなのばかりで、まあ私もやり方が下手だったりバカだったんだと思いますが場数も踏んで人間は所詮そのようなものなのだと諦めることができました。だから傷ついたものの気持ちは他よりはわかるつもりですが、その気持を持つ存在もまた人であるので壁ができてしまう。なんというか、人と本当の意味で寄り添えないのです。期待の反例ばかりを知っていて、自分が何かをすれば、悪いものだけが返ってくるのを知っているから。

冷めている。声は明るいのに目が一切笑ってない。考えることがロボットみたい。遠くからみても圧がある。踏みつける方。病む前でもそういうことを言われていたのって、将来だとか夢だとか、考えたことがなくて。理性や現実ばかりが先立って己の気持ちをさらけ出し切るなんてしたことあるのかな、ないんじゃないかなと思います。

その場で一番妥当な、尖らない答えを選んで嫌われないようにすごしても、自分をさらけ出してすごしても、どっちにしても大怪我をした。人間は自分を含めて愚かしい存在だと痛感した自分はその生暖かさが嫌で嫌で汚れた手で触れられないように過ごすようになっていったから、色んなものにバツをつけて、経験則と思考回路からいわゆる正論と呼ばれるものを投げて来たからそんな印象になったんだと思います。そんなこと言う奴らもどうなの?と思うかも知れませんが、私が思うことを言うから相手も思うことを言っただけだと思います。上っ面の言葉なんて今更かけられてもなににもならんですし、思うコトを言ってくれたほうが益になるのでたくさん参考にしました。本当にそれ以上でもそれ以下でもなく、独りよがりな人達との交流が増えていきましたからなおさらです。別にそこにどうこうはないです。みんな"そんな感じ"だと思っていたら自分が思いの外生きるのが下手すぎたようで、怪我をするのは普通ではないようで、驚いているのが病んでからの数年です。

 

話は戻るんですが自分がそんなんで泥水を啜るような状態、満身創痍な状態から始まる存在というのは自分にとってリアルで、応援したくなるんですよね。加えて、私は強い信念に基づいて生きたことなどないのでなにかに向かって頑張っていたり全力で楽しんでいたりする子達があまりに眩しくて、健気に見えた。私には「一点を見据えて叶うかもわからないことに走り続ける」なんてできっこないです。限界突破なんてできないです。不完全を補填し合うなんてもってのほかなんですがそれを奇麗に魅せてくれる作品は本当に美しく、心に刺さりました。充実したなあという気持ちです。

 

全然最近のことに話を持っていけないでいますが、やっぱ日常が希薄していたので全体的にバッドだったといえばそうだなあ、って感じです。ある意味上の空か睡眠の二極化だったかも知れません。発作の頻度も落ちた気がします。ただやっぱサイクルらしいサイクルがなくやるべきことをこなしてやれることをやって目を閉じるような状態で完全に外に出る頻度が落ちています。窓を開けるだけでも外に出る気ってでてきますし毎日のように外に出ていた頃は毎日が刹那的ながらも心躍る部分があったりしたのでそんな時間が少しでも増えればいいなと思います。文字のリハビリはそれはそれで楽しいという瞬間があったのですが肉体的にも活動自体もこもっている状態なのでまた少しずつ、感じたことを残す作業を(可能なら見られている意識を持って)していきたいです。

あと部屋にいるとやたらと選挙関連でチャイムを鳴らされて耳がキンキンするのもあるので用がなくても外にでる(冬になっても)を意識したいです。

 

バテるまで自分が今どれぐらいのHPなのか加減がわからないのが自分の問題なのは前から思っています(0か100でしか処理できない)。作品を作る人達へ好きだというアプローチが露骨に減ったのは考えていても実行に移す前に眠ってしまうから、とかそういう間の悪さだったりする(もとに戻ってしまったに等しい)のでこういうので掴んだ縁を手放したくないなとは思っています。

 

死に損なって得たこの残りの人生はエクストラステージと常々思って生きていますが、今日もこうやって隅っこで考え続けているやつがいることを誰か一人一瞬でも思い出してくれていたら万々歳なのかも。また書きたくなったら書きます。では。